三ツ峠山中興の祖善応空胎惟阿上人は、天明五年(一七八五年)に埼玉県熊谷市(旧大里郡)で生まれました。文政七年(一八二四年)、四〇歳の時、神鈴峯の復興に関心をもち、天保四年(一八三三年)には本拠地を三ツ峠山に移し、山の復興に努めました。
復興は、天保六年に集中的に行われ、本宮、護摩堂(ごまどう)を再建し、さらに参道の開削などを行いました。
善応空胎惟阿上人は、文久二年(一八六二年)、七六歳で没しました。遺体は、下暮地の仏眼寺(ぶつげんじ)で荼毘(だび)にふされ分骨の上、生家をはじめ生前関係の深かったところに埋葬されました。
その後は二世観誉豊恭信阿上人より六世善平和尚(ぜんべいおしょう)らによって守り続けられました。
善応空胎惟阿上人の墓石は、高さ102㎝、幅70㎝、奥行45㎝の自然石で造られています。